一つのフェスティバルが複数のフェスティバルになっていく映画
2006年までにGlastonburyは、30年以上にわたる矛盾を蓄積していた。その系譜には、ごく小さな初期集会、無料精神の強い1971年Glastonbury Fayre、オルタナティブな精神文化、英国フェスティバル地下文化の政治性が含まれていた。同時に、巨大アーティストと膨大な観客を呼び込める評判、放送網、専門的警備、大規模インフラを備えた、英国を代表する有料音楽機関の一つにもなっていた。
Julien Templeの映画は、この歴史を単純な年表にしないことで応える。Glastonburyは数十年分のプロ映像、ニュース素材、過去の映画、アマチュア映像、そしてこの企画のために撮影・収集された何百時間もの素材を使っている。Irish Film Instituteは、一般投稿とBBC素材を合わせた約900時間のアーカイブに加え、Temple自身が撮影した約450時間の映像があったと説明している。
通常のドキュメンタリーなら、この膨大さを年代、出演者、節目へ整理するだろう。Templeはそうせず、Glastonburyを異なる時代が同じ土地を繰り返し占有する場所として扱う。古い映像が新しい映像の隣に現れ、音楽の流行は入れ替わり、世代ごとに「自分たちこそ本物のフェスティバルを発見した」と確信する。
その結果は、主題に合った意味で雑然としている。Glastonburyはコンサートの列ではなく、周期的に再出現する社会的な生き物として提示される。
Worthy Farmこそ中心人物
映画が最も一貫して見つめる主題は、会場そのものだ。Worthy Farmは一年の大半をSomersetの農地として過ごし、その後定期的に仮設都市へ変わる。フェンス、ステージ、照明塔、音響設備、テント、通路、飲食店、衛生設備が風景を変え、最後に何万人もの人々が到着することで変身が完成する。
Templeはこの物理的変化へ繰り返し戻る。プロの放送映像は当然ステージを優先するが、より広いアーカイブは泥の中を歩く人々、テント外で疲れ切った参加者、即興のダンス、火、旗、キャンプサイト、農地が独自の生活リズムと地理を持つ場所へ変わっていく過程を保存する。こうした細部が重要なのは、ラインナップ・ポスターでは見えない事実を示すからだ。フェスティバルで生きられる時間の大半は、演奏と演奏の間にある。
この視点はTempleの映画をGlastonbury Fayreとも区別する。Peter NealとNicolas Roegの初期作品は、Glastonburyが制度になる未来を誰も知らない1971年のイベントを、同時代の内部から記録している。Templeはすでに記憶を背負った場所を撮影している。会場はもう、どうすればフェスティバルになれるかを発見する必要がない。儀式、期待、対立を受け継いでいる。
「本物で純粋な初期Glastonbury」という幻想の危険
初期映像はノスタルジアを誘う。最初のPyramid Stage、無料フェスティバルの理想、1970年代のカウンターカルチャー的雰囲気を見ると、後年のGlastonburyは真正な起源から離れて商業化された子孫のように見えやすい。Templeはその緊張に関心を持つが、「純粋さから堕落へ」という単純な歴史にはしない。
初期フェスティバルも、文字通り経済の外側にあったわけではない。ステージには材料が必要で、食料はどこかから来なければならず、土地には所有者がいて、アーティストには運営が必要だった。後年のGlastonburyははるかに発達した商業構造を持ちながら、主要慈善団体、環境運動、政治的課題との結びつきでも知られるようになった。最も目立って変わったのは、イベントを支える仕組みの規模と専門性である。
2000年代初頭までには、外周フェンスは強固になり、放送は中心的な存在となり、来場者はGlastonburyが「どう見えるべきか」について、すでに確立されたイメージを持って到着した。泥、旗、Pyramid Stage、耐久力は期待される物語の一部になっていた。人々はイベントに参加しながら、テレビ、写真、過去の訪問を通してすでに知っているGlastonbury像を同時に演じることもできた。
Templeの映画は、その自己認識を自動的な衰退の証拠にしない。文化的制度には必ず儀式が生まれる。重要なのは、その儀式が何を保存し、何を置き換えるかである。
アマチュア映像が歴史記録を広げる
Templeの最も有用な編集判断の一つは、プロの放送局や公式アーカイブだけでなく、フェスティバル参加者から提供された映像を大量に使ったことだ。テレビカメラは当然、有利な位置、明瞭な音、視聴者が知っている主要アーティストを記録する責任があるため、大型ステージへ集中する。アマチュア映像は別の種類の歴史を保存する。
家庭用カメラは、テントの外での会話、深い泥を進む道、どうでもよい時間帯に友人たちが下手に踊る様子、道端で寝る人、公式フェスティバル記録には決して登場しない人間を残すかもしれない。こうした映像には放送素材の磨き上げられた質感はないが、イベントが専門的にどう見せられたかではなく、人々が場所をどう生きたかを見せてくれる。
Templeはそれらを組み合わせることで、意図的に不均一な映像質を作る。16mm、テレビ映像、ニュース素材、家庭用録画はきれいには一致しないし、映画も一致しているふりをしない。その不一致が有用になる。各ソースは異なる種類の権威を持つからだ。放送カメラは主要演奏を驚くほど詳細に保存できる。アマチュアカメラは、プロのクルーなら重要と考えなかった記憶を保存できる。その結果、フェスティバルの歴史はステージを越え、周囲に存在した何千もの私的体験へ広がっていく。
音楽は時間を示すが、ベストヒット集にはならない
Glastonburyには数十年をまたぐ主要演奏が含まれるが、Templeは映画が通常のコンサート・アンソロジーに落ち着くことをほとんど許さない。曲は、イベント全体の肖像の中で歴史的な錨として機能する。たとえばPulpの"Common People"は、単に有名なライブ場面を提供するだけではない。1990年代の社会的・音楽的空気を、回顧的ナレーションでは再現できない即時性で映画に持ち込む。
同じ原理はドキュメンタリー全体に働く。音、ステージ設計、観客行動、演奏スタイルの変化が、各時代を形式的に説明しなくても見える。プログレッシブ・ロック、フォーク、パンク、オルタナティブ・ロック、電子音楽、ポップが同じ野原を通過し、それぞれの歴史的アイデンティティを保つ。
この広さは、一つの世代がフェスティバルを独占することを防ぐ。1970年代をGlastonburyと結びつける観客は後年の変化に出会い、Britpopや1990年代のオルタナティブ文化から入った観客は、はるかに古い系譜を突きつけられる。時代間を絶えず移動することで、フェスティバルの連続性は単一ジャンルより重要になる。
フェンスはPyramid Stageと同じくらい明瞭に歴史を語る
Glastonburyの外周フェンスの発達は、イベントがどう変わったかを理解する別の方法を提供する。長年、フェンス越えや無許可入場はフェスティバルの伝説の一部だった。そのロマンチックな版は開放性と商業的管理への拒否を称えるが、過剰な人数は深刻な安全・収容問題も生んだ。
2000年代初頭の強化された「superfence」の時代は、フェスティバルを物理的にも思想的にも変えた。チケットははるかに確実に管理され、会場人口は制御しやすくなり、警備計画は改善され、希少な入場権の商業管理も容易になった。
こうした変化は行政だけに影響するのではない。機能する外周は、誰が入場するか、どれほど混雑するか、どんな自発的・非公式文化が入り込めるかを左右する。Templeの広い歴史の中で、フェンスはPyramid Stageへの有用な対照になる。ステージがスペクタクル、連続性、視覚的アイデンティティを表すなら、外周は管理、経済、無料フェスティバル理想の現実的限界を表す。
遺産として磨かれすぎていない政治性
Glastonburyとカウンターカルチャー政治の関係は、平和記号や慈善バナーという馴染み深い図像より複雑だ。1980年代にはCampaign for Nuclear Disarmamentと強く結びつき、travellerやfree-festivalの共同体もその社会世界の一部だった。警察、土地へのアクセス、オルタナティブな暮らし、政治的抗議の問題は、実際のイベント運営へ影響した。
Templeのアーカイブが価値を持つのは、その摩擦の一部を残しているからだ。より制度的なドキュメンタリーなら、Glastonburyを「過激な過去が自然に成熟し、善良な全国的文化財になった」安心できる物語にしてしまえる。残存映像はもっと居心地の悪い変化を示す。世代ごとに商業化、警備、オルタナティブ文化の意味を巡って争い、その一部は後年のブランドへきれいに吸収できなかった。
その複雑さはノスタルジアより有益だ。初期が自動的により純粋だったわけでも、後期が自動的に空虚だったわけでもない。重要なのは、過去とのつながりを主張しながら、イベントが何度も変化したことだ。
映画自身のバージョン史も主題を映す
このドキュメンタリー自体にも版の歴史がある。BBFCは2006年に138分19秒の映画館版を分類し、その後同年の物理メディア版を132分27秒としている。後年のVOD分類は再び長い劇場版に近い上映時間へ戻っている。
観客向けには単純に説明できる。劇場版は約138分で、より短いホームビデオ版も存在する。しかしアーカイブ上は、一つの「正しい」上映時間へ平均化せず、各数値を該当版に紐づけて残す必要がある。
この小さな技術問題は、映画の大きな主題を映している。Glastonburyという名前は同じまま、内容は変わる。Templeのドキュメンタリーが成功するのは、変化する版を一つの決定版フェスティバルへ還元しないからだ。何度も自分を作り直し、そのたび過去の記憶と議論する場所を提示する。
Glastonbury Fayreと並べるとさらに有用になる。1971年の映画は、自分の未来をまだ知らないイベントを保存する。Templeの2006年作品は、その未来が自分の出発点を思い出そうとする姿を見せる。
視聴・コレクション上の注意
2006年映画館版は約138分。BBFCは同時に132分の2006年物理メディア版も記録しているため、物理版へ自動的に劇場版の上映時間を引き継がないこと。